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『The Substance』から考える:演出と俳優のあいだにある“動き”の構築─インティマシー・コーディネーター(ディレクター)の視点

『The Substance』ーサブスタンスという作品への敬意

ずっと気になっていた映画「サブスタンス」を観てきました。

本作に出演されたデミ・ムーアとマーガレット・クアリーのお二人は、驚くほど真摯で、緻密で、精密に計算されて、そぎ落とされていて、圧巻でした。身体を通して、社会が女性の身体やイメージにどう投影してきたかを問い直すような場面も多く、表現に対する集中力と明確なスタンスが印象的でした。

私自身、フェミニズムの流れ、ジェンダーのあり方、多様性について、ロンドン大学の舞台芸術学科の時代から、おりに触れて気になることがありました。当時、大学のリベラルの雰囲気に、日本から離れて、初めて開放感を感じたことを覚えています。

さて、本作を手がけたコラリー・ファルジャ監督の視点は鋭く、象徴や視覚表現に対する解像度の高さと、物語全体を通して現代社会に問いを投げかける構成が本当にくっきりはっきりしていて、まさに映画だと感じました。

「説明的なセリフ」が少ないからこそ、本当に絵が、動きが語ります。

緊張の高まりや緩みといった基礎的な(初歩ではない)演出も非常に明瞭で、ホラーというジャンルにとどまらず、「女性の身体性」や「多様な価値観」といったテーマが、ジャンルを越えて突きつけられてくるような印象を受けました。

実際、私は観に行くまでホラーだとは思ってなかったんです。どちらかと言うと、サスペンスかな…と思っていたくらいです。

この作品は、ホラーとして新しい領域を開拓していると感じますし、同時に、現代を生きる私たちが“何を見ているのか”“どう見ているのか”を、映像を通じて、ときにはグロテスクに、そして強烈に風刺しながら、毎日消費している私たち自身の目を問い直してくるような、そんな力を持った作品だったと思います。

ご覧になった方たちはどのように感じられたでしょうか、すごく興味があります。

話題作『The Substance』は、ホラー作品として語られることが多いが、その本質は“身体がどう見られてきたか”という視線の問題から

象徴化された女性の身体、フェティッシュと演出の境界、そして俳優自身の感覚と表現の自由。どれも、映像や舞台の現場で日々起きているテーマです。

昨今、インティマシー・コーディネーター(ディレクター)と名乗るだけで、すぐに性愛やヌードとの結びつけられるのだが、なぜそうなるかに、私自身、もともと興味があります。

実際、私がIDCの資格を取るために、約2年半かけて研修を受けていく中で、ニューヨークでの実践的な研修(ジェンダー、ボディイメージ、多様性、人種差別、ルッキズムの問題提起を含む)を進めていく時、台本の切り口や、そもそも身体の見つめ方から問い直されたわけです。また、先月、資格の更新もあったのですが、表現に関連した仕事の責任というものも(しつこく)意識させられます。


1.同じ“モト”から演じていても、交わしているものは違う

映画『The Substance』では、デミ・ムーアとマーガレット・クアリーが、“同じ女性像”をなぞるように演じる構成が印象的でした。視覚的には類似したポーズ、ほぼ同一の振る舞い、だったはずが、どんどん崩れていく、そして過激化していくスー。と思いきや、実は同時にエリザベスも激しい変容を遂げていきます。

私が、インティマシー・コーディネーター(ディレクター)として、つい思い起こすのは、演出上、「こう動いてほしい」「こう見せたい」という意図は明確に存在していて、そのおかげで、様々な作品が可能になっていること。あらゆる専門家が、それぞれの強みを発揮して、角を取らないで(これが難しいところ)相互作用目指すことの素晴らしさ。

しかし、それが言語化されず、抽象的なまま俳優に伝わることは、まだ多いかもしれません。結果、俳優側が“読み取る”責任を一方的に負わされてしまうことになると大変だなと、日々感じます。

このとき重要になるのが、「動き」の構造化です。

俳優が何を意図してその動きを繰り返すのか、まず本人にとってどんな意味があるのか、そして、周囲にどんなインパクトを与えているのか、またその動きが演出全体の中でどう機能するのかを明らかにしていくことで、深みが増すと感じています。私は、その橋渡しをする役割を的確になって行けたらと考えています。

ケンカのシーンのアクションも単なる動きの指示ではないです。役を掘り下げ、演出意図を身体で再現する手順として振付け、整理しているはずです。それにより、俳優は演じる意味を理解し、演出家は表現したい内容を的確に実現できるようになる。

この映画の中でも、2名の強烈な人物(と呼んでいいのか)の性質が際立っている動きや表情の組み合わせは、秀逸でした。

圧倒的に、見ているものの視点を暴いていく、計算された動きと、演技との融合です。(演技自体、実際、あらゆる動きを含むものなのですが)

先日拝読したインタビュー記事の中で、デミ・ムーアは語っていました。「この役を演じるには100%入魂する以外に方法はない。エリザベスというキャラクターの脆さを徹底的に露出させることが重要だった」と。そしてマーガレット・クアリーも、「最初から100%入魂した。同時に違和感も感じた」と答えている。

こういった“違和感”がどこから来るのか。

「入魂」と翻訳される表現にも、ちょっと実は驚いたんですが、精神論にならず、俳優のそれをていねいに扱い、動きを整理して、調節していくことのプラスになる仕事ができればと、日々感じております。

2.想起させるーその先へ

ただ、問題提起として、ショッキングな映像とほぼ2つと言っていいような(本来は1つ)アイデンティティーがぶつかり合って、激しく、身体も、ほぼ肉!も暴力的に対決していく痛々しさ。

と同時に、あらゆる場所の持つ特徴や、色など、すべての要素が、それぞれ際立ちながらも、1つの世界と2つのリアリティーを行き来していると感じました。

ただ、身体の部位を露出したり、性的に描くだけではなく、それがどこから来るのか、どこへ向かって行けるのかを、目線の先に何があるのかと同じように、拡張していくところに、現代的な感覚と、インタビューにもあった監督の、一種、執念!のような意識の明瞭さと絞られた表現に脱帽です。

私、これまで演技指導20年ほど勤めてきましたが、この「想起させる」事は大きなかけであり、なかなか調整の難しい、さじ加減の部分です。

実は、この「ここまで振り切れてると思わなかったので、私はつい緊張しっぱなしでしたが、アクションもダンスも、全て演技と混じり合った素晴らしいものでした。

もちろん、後半のコミカルな部分、オマージュ部分も、ゴシップ的に消費したり、バカにして笑うだけではもったいないと思いました。そういった反応も含めての、展開なのでしょうから。

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エリザベスとスーのラストには驚愕で、激しいジェットコースター体験を経て、映画館を後にした私でした2時半。

さて、この記事を目にされた方のなかには、すでに私と現場をご一緒された方もいらっしゃるかもしれません。

作品のなかでほんの一瞬でも「この動きがあってよかった」「あのとき整えておいてよかった」と感じていただいたことがあるなら、何よりです。そして、 それはチーム全体の目に見えない信頼の積み重ねによるものですから、私自身もお声掛けをいただき、ありがたい気持ちでいっぱいです。

あの現場を覚えていてくださっていたら、いつか別の機会でも、なにかのきっかけとしてまた思い出していただけたら嬉しいです。

● IDCでの研修のいきさつをPR TIMES記事にしてもらいました。よろしければ、お目通しいただけると大変光栄です。

https://prtimes.jp/story/detail/rNLGaWCGj9B

(この記事の画像は、公式サイトからお借りしています)


Kaoru Kuwata

演技指導歴20年以上。ムーヴメント専門家・アレクサンダー・テクニーク指導者としても、プロの俳優や歌手、ダンサーの身体表現を幅広くサポート。 現在は、ニューヨークでの実地研修を経て、IDC認定インティマシー・コーディネーター(ディレクター)としても活動中。 舞台・映像・教育現場など、多様な現場における“演出の意図”と“俳優の安心”を両立するため、動きの整理と振付を通して現場を支えています。 ブログでは導入事例や現場での変化も発信中です。 映画監督・演出家・俳優の皆様に向けたお役立ち情報をシェアしています。現場に必要かどうか、まずはご相談ください。